水と緑がもたらした豊かな大地に、集落が生まれ日々の暮らしが営まれていました。
水と緑がもたらした豊かな大地に、集落が生まれ日々の暮らしが営まれていました。太古の昔から、土浦は、海の幸、山の幸に恵まれた豊かな土地でした。
土浦では、今から約3万年前の旧石器時代から人々がすでに暮らしていました。
縄文時代になると、霞ヶ浦は海とつながった入り江となりました。人々は土器の発明によって食料を調理・保存できるようになり、各地に集落も生まれます。上高津貝塚は全国でも有数の大規模な貝塚で、霞ヶ浦と人々の生活を伝える貴重な遺跡です。
弥生時代の集落は木田余・宍塚・永国などで発見されており、特に紫ヶ丘の原田遺跡群から発見された大規模な集落跡は、茨城県内でも有数な規模にあたります。
その後の古墳時代には、土浦市内の台地上から発見される遺跡の数が増加することから、地域の人口は更に増加したことがうかがわれます。特に木田余台や常名台などでは大規模な集落跡も発見されています。また后塚古墳や王塚古墳、武者塚古墳など多くの古墳も、霞ヶ浦や桜川などを臨む台地に築造されています。このころ土浦にも大和政権と手を結ぶような勢力をもつ豪族がいたことを示しています。
奈良・平安時代になると、中国の唐にならって律令と呼ばれる法体系が整備され、中央集権国家の形がとられます。全国は、道・国・郡・里(のちに郷)という行政単位に分けられ、農民には決まった面積の田が支給される一方、その代わりに納税や兵役の義務が課せられました。当時の常陸国は、十一の郡からなり、土浦市域は茨城・筑波・河内・信太の四郡にまたがっていました。田村・沖宿遺跡群や烏山遺跡に営まれていた古代のむらは、土浦市内のこの時期の有力な集落跡です。またこの時代は、仏教に代表される新しい文化が、地方へと広がりを見せ始めた時期にもあたります。根鹿北遺跡出土の瓦塔や常福寺の薬師如来などから人びとの仏教信仰を知ることができます。