武家社会とともに生まれた文化は、数百年を経た今なお私たちに伝えられています。
武家社会とともに生まれた文化は、数百年を経た今なお私たちに伝えられています。奈良時代に始まった律令の制度がゆるみ、政府の威令が及ばなくなってくると、土地は力を持ったものが支配するようになります。開発領主と呼ばれた彼らは、自分の土地や財産を守るために武装し、武士が発生しました。はじめは貴族の家臣に過ぎなかった武士は、しだいに主人である貴族を圧倒していきます。中世と呼ばれる鎌倉・南北朝・室町・戦国の時代に、武士は政権を握ることになります。
常陸国南部には中世を通じて活躍した武士に、小田氏がいます。鎌倉時代に大掾氏に代わって力を伸ばした小田氏は、南北朝期には常陸国の南朝方の中核となりました。戦国時代に入ると常陸国北部の佐竹氏との争いの中でしだいに領地を失い、ついに天正年間にはその軍門に下ることになります。佐竹氏の常陸平定により、常陸国の中世も終わりを告げました。中世という時代は、兵乱の時代でもあり、人々は社会不安から仏教を信仰し、仏教が文化の中心を占めました。土浦でも小田氏やその武将菅谷氏の保護を受けて仏教が栄え、現在でも大聖寺や般若寺、東城寺、法雲寺などの寺院にその面影をたどることができます。「土浦」という地名が、歴史的資料に初めて登場したのもこの中世です。当時の土浦及びその周辺地域は信太荘という東寺(京都)の荘園に含まれていました。東寺百合文書という古文書の中の「結解状」(荘園の収支決算書)の一部に土浦という地名が残されています。